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 前田西前田原B丘陵では、平成 25 年度に実施した発掘調査によって計 63 基の遺構を確認するこ とができた。それらの調査成果の詳細について報告を行ってきたが、あらためて下記の項目ごとに総 括し、本調査地区のまとめとしたい。

1.遺構の特徴と墓域の形成について

 前田西前田原地区には4つの丘陵があり、その中で今回報告した前田西前田原B丘陵はほぼ中央部 に位置する丘陵である。丘陵の土質は細粒砂岩(ニービ)が主体ではあるが、一部は第三期泥岩層(ク チャ)を挟んだ互層であった。本丘陵に所在する墓はすべて、このような地質の丘陵に横穴を掘り込 んで造られた掘込墓(フィンチャー)である。

 遺構の形態については、丘陵の中央に近い上段から中段については比較的定型的で中型~大型の墓 が多く、丘陵の周辺部や裾部については不定形で小規模である傾向をみてとることができた。これは、

丘陵の頂部から中段にかけては急斜面があるため、高低差を利用した造墓が比較的し易いといった地 形的な要因があると推測される。墓室形状による類型の内訳をみると、1 類が最も多く 36 基(1a:

11 基、1b:10 基、1c:9 基、1d:6 基)、2 類が 5 基(2a:3 基、2b:2 基)、3 類が 5 基(3a:1 基、3b:1 基、3c:3 基)、4 類が 3 基(4a:1 基、4b:2 基)、5 類が 12 基(5a:6 基、5b:6 基)、

6 類が 2 基(6b:2 基)である。このことから、棚が造られないかもしくは一段のみ造られる比較的 単純な造りの墓が約 8 割を占め、棚が複数段造られる比較的定型化した中規模から大規模な墓は 2 割 程度であった。

 上記のなかで、2 類 b のタイプに属する遺構として、遺物を伴うかたちで検出された 6 号墓と 42 号墓について取り上げる。この 2 基は、墓室の形状だけではなくいずれも丘陵の頂部近くに造墓され る点や、ボージャー形の蔵骨器が検出されている点で共通する。遺物の出土状況からは蓋と身のセッ ト関係が明確な資料ではないものの、ボージャー形の蔵骨器は型式的には 18 世紀中頃から後半の資 料である。これらの資料が本丘陵から確認された遺物の中では、比較的古手の資料になるため、本丘 陵における墓の造営年代の上限を考える上では一つの指標になる。これらと年代的に近いと考えられ るボージャー形の蔵骨器の資料は 31 号墓や 41 号墓でも確認されている。これらのことから、本丘 陵においては 18 世紀中頃から後半頃には複数の墓が機能する墓域として機能していたと考えられる。

 丘陵の中段に並ぶ比較的大・中規模の遺構は、遺構や遺物の残存状態が良くないため年代的な位置

づけが難しいが、丘陵裾部の下段に位置する 38 号墓、51 号墓、56 号墓などの小規模で不定形な墓 室を有する遺構は、いずれも 19 世紀後半から 20 世紀初めにかけての遺物が検出されている。この ことから、19 世紀以降に徐々に丘陵の中段や下段に墓が造られ続け、20 世紀の初めころには、墓が 横並びに展開するような景観になっていったと考えられる。

 その後、戦争により遺構の大部分は改変や崩落により大きな影響を受けるものの、一部の墓は戦後 も引き続き墓として機能したと考えられる。実際に、現在の前田集落により近い 11 号墓、12 号墓、

61 号墓、62 号墓では、比較的大きな墓が、墓の前面をコンクリートで改修して近年まで使用されて いた。また、南側斜面については大部分で地形が崩落していたが、一部では 37 号墓のように戦後の 火葬骨壷や金属製の缶を使用した蔵骨器が確認されるなど、墓として使用した痕跡が確認されている。

2.遺物の年代観と墓の被葬者について

 遺物のなかでも最も多く検出された蔵骨器の年代観について触れる。蔵骨器は、ボージャー形が年 代的に最も古く、6 号墓や 31 号墓、41 号墓、42 号墓において年代が比定できる資料が検出されている。

型式的には安里分類(安里・新里 2006)の蓋Ⅴ・Ⅶ型式、身Ⅱ~Ⅶ型式の資料が出土していること、

その中でも 6 号墓で第 11 図 11 に示したようなボージャー形の終末期(身のⅦ型式)の資料がある ことから、おおむね 18 世紀中頃~ 19 世紀初め頃にかけての資料であると考えられる。それ以外の 墓では、ほとんどがマンガン釉甕形の資料であり、一部にマンガン釉庇付甕形の資料も得られている。

これらは、安里編年(安里 1997)のⅣ~Ⅵ期の資料であり、19 世紀から 20 世紀にかけて流通した ものと考えられている。これらの資料が、本調査地区で最も出土量が多いが、この傾向は前田・経塚 近世墓群の他の地区においても同様である。石製や陶製御殿形の蔵骨器があまり検出されていない点 は、本地区の特徴的な様相を示すものである可能性もあるが、遺物の大部分は墓の移転の際などに持 ち出されていると考えられるため、積極的な評価は控えたい。

 また、37 号墓では戦後に使用された陶製の火葬骨壷とともに、金属製の缶を蔵骨器に使用した事 例が確認された。こういった事例は、この墓域が戦争をはさんで戦後まで機能していたことを示して いるだけではなく、戦後のモノがない時代に「代用品」として蔵骨器を調達した庶民の暮らしぶりを 示す事例であろう。

 今回の調査では蔵骨器の銘書から「前田村」「石川」(6 号墓)、「石川」(38 号墓)、「嶋袋」(41 号墓)、「浦 添間切前田村」「親富祖」(42 号墓)、「字前田」「石川」(51 号墓)などといった村名(字名)や姓が 確認されたことから、同丘陵は近世から近代にかけて前田の墓域として機能していたことが確認され た。これらの銘書では、姓名だけではなく、屋号が書かれるなどの特徴から概ね百姓層のものである ことが判明した。また、41 号墓の蔵骨器には、儀保村や中城村出身の女性が被葬者であると資料も みられることから、往時の前田の人々の家族形成をみることができる点が特筆される。

3.戦争遺跡としての前田西前田原B丘陵

 前田西前田原B丘陵では、戦跡としての様相も強くみられた。4・5 号墓のように墓が連結され避 難壕として転用された事例や、44 号・45 号遺構のようにそもそも墓として造られたものなのか当初 から壕として造られたのか判然としない遺構も確認された。また 4・5 号墓や 19 号墓では、遺物と

して統制経済下に流通した碗や皿などの日用品が持ち込まれて実際に避難壕などとして利用された痕 跡が確認できたことから(第 7 図、第 39 図)、戦時中に本丘陵の遺構の幾つかが避難壕として使用さ れたことは明らかである。

 41 号墓や 56 号墓では、一次葬人骨が洗骨される前に天井が崩落等により埋没している。いずれも 周辺の地形の崩落状況などから、戦時中の砲撃などの影響により埋没したものと考えられ、これらの 遺構は戦争を境に墓として機能しなくなったと考えられる。また、37 号墓の墓口付近に砲弾による 攪乱がある点や、南側斜面中段の遺構の残存状況が悪く地形ごと大きく崩落している点などから考え て、特に南側斜面一帯においては戦時中に大きく砲撃を受け崩落している可能性が高い。

 戦時中に墓が避難壕として利用される様相は、同丘陵に隣接する前田西前田原A丘陵でも同様に確 認されている(浦添市教育委員会 2015)。これらの遺構や遺物は、浦添の前田地域で行われた戦争の 激しさを物語るモノであり、前田・経塚近世墓群における戦争遺跡としての側面をみることができる。

〈引用・参考文献〉

安里進 1997「伊祖の入め御拝領墓の厨子甕と被葬者-近世墓の考古学的調査による家族復元-」『伊 祖の入め御拝領墓の厨子甕と被葬者』浦添市文化財調査研究報告書第 25 集

安里進・新里まゆみ 2006「比嘉門中墓の家族史-家族の数だけ歴史がある-」『比嘉門中墓の家族史

-家族の数だけ歴史がある- 比嘉門中墓の調査概要』浦添市文化財調査研究報告書

安斎英介・上原千明 2015「沖縄の遺跡から出土する近代の本土産磁器について-スンカンマカイと 統制番号を有する資料を中心に-」『南島考古』第 35 号、沖縄考古学会 

浦添市教育委員会 2007『市内遺跡発掘調査報告書(1)-平成 13 ~ 18 年度調査報告-』

浦添市教育委員会 2011『前田・経塚近世墓群2-首里大名地区-』

浦添市教育委員会 2012『前田・経塚近世墓群3-前田真知堂 B 丘陵(1)・前田真知堂 C 丘陵(1)』

浦添市教育委員会 2013『前田・経塚近世墓群4-経塚子の方原 A 丘陵(1)-』

浦添市教育委員会 2015『前田・経塚近世墓群6-前田真知堂 A 丘陵(1)・前田西上原 A 丘陵・前田 西前田原 A 丘陵』

鈴木悠 2014「近世琉球における百姓身分の銘書の変遷について(試論)-浦添市内出土資料の検討 を中心に-」『浦添市文化部紀要 よのつぢ』第 10 号、浦添市教育委員会文化部

ドキュメント内 浦添市文化財調査報告書 | 浦添市 (ページ 86-89)

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